毎朝、子どもにお弁当を作り、仕事が終わるとスーパーに寄って夕飯の買い物をする。これが、私の日課です。
スーパーではつい、子どもが好きなお菓子や食べ物を手に取ってしまいます。3つ入りのプリンやヨーグルトもよく買います。でも、私がそれを食べることはありません。
「私は食べないから、食べていいよ」
そんなふうに言って、子どもたちに譲ってしまう。
お弁当を作るときも、まずは子どもの分から詰めるので、自分のおかずが足りなくなることもあります。そんなときはミニトマトをたくさん詰めて、自分のお弁当とするのです。
夕飯時、「おかわりある?」と聞かれ、「もうないよ」と返したあとに、
「私はあんまり食べたくなかったから、これ食べていいよ」
と、自然に言ってしまう。
でも本当は、プリンだって、夕飯のおかずだって、私も食べたいときがある。
それでも、「私はいらないよ」と、つい口にしてしまうのです。
あるとき、娘に「お母さんの好きな食べ物って何?」と聞かれ、答えに詰まりました。
――私の好きな食べ物って、なんだろう。
大きくなった子どもたちは、「平等じゃないのは嫌だから、ちゃんと食べて」と言ってくれるようになりました。今思えば、私は“自分が我慢すればいい”という小さな自己犠牲を積み重ねていたのかもしれません。
それって、ただの自己満足だったのかな。
みんなで少しずつ分け合って、「おいしいね」って言い合う方が、きっとよかったのかも。
「私はいらないよ」という言葉の裏には、きっと、子どもたちに満たされてほしいという思いがあった。それが自己満足だったとしても、それも私なりの愛情だったと思う。
ただこれからは、自分の「食べたい」や「好き」も、ちゃんと大切にしていけたらいいな、と思います。